日本拳法

Japon,Japan,Osaka,Tokyo

創始者 故・澤山宗海

 明治39年12月12日生まれ、 本名勝(まさる)昭和7年関西大学法文学部法律科卒業。同年秋日本拳法を創始し、日本拳法会を組織し会長となる。昭和15年2月応召、同21年5月まで南 支の戦線。昭和29年母校関西大学講師。同年矢野文雄氏に会長を譲り、宗家を号し専ら道の研究に専念する。昭和42年大阪薫英女子短期大学教授。昭和52 年9月没。著書に「大日本拳法教書」「日本拳法教伝」。

日本拳法とは
素手の格技であり、その技術構成は、拳の突打・足の蹴りなどの持技と、組ついた場合の投技、関節の逆技などの諸技を総合したものであり、その特徴は防具を着装し、自由に撃ち合って安全に稽古ができる、近代武道である。
日本拳法は武道である。だが、同時に、スポーツとして快味を楽し むこともできるし、また、体育として心身を陶治することもできる。これは、人の受け方によって、できてくる相違である。だが、拳法自体は元来一つのもので あって、その受け取り方のいかんによって変わるものではない。これは学ぶ者がよく銘記せねばならない。また道は、単に知識のみでは得られず、全身をもって 求め、そこには必ず、全身の活動による実践がいる。修行者は、拳法の取得によって、道を果たそうとするのである。

Muneuomi SAWAYAMA

日本拳法の始まり
古来拳の格技は、組打の格技とらがって、修技者両名が、相対し互いに自由に技を戦 わして稽古することは、きわめて危険で、血を流さずしてすることは、絶対に不可能である。このため稽古は、古くから補助的な独り稽古をしたり、また修技者 同士が形式で稽古したものであった。むろん独り稽古、形稽古も拳法の修行には必要だが形一辺倒の修行をしているうちに、欠陥や弊害が生じてきたのである

そこで「約束組手」「自由組手」「真剣組手」の自由に撃ち合う 稽古が工夫考案され、防具着装の創案となったのである。時に昭和5年秋のことである。さらに技が磨かれ、様式が整い昭和7年に同志100人が集い、会が結 成され、澤山宗海宗家が初代会長となった。防具の考案には、太い針金を曲げ、面金や股金をつくり、帆布を縫い合わせ、綿クズを詰め、頭・頬当、下当を書式 作し、垂水神社(大阪吹田市)の裏山で実験し試行錯誤を繰り返し完成し、乱稽古の誕生となったのである。昭和9年のことである

NIJJEN

中部における日本拳法の発展

昭和7年宗家澤山宗海を創始者とし関西大学に同志が集まり発会した。
中部の興、故 山田洪志は、関西大学在学中に宗家と共に日本拳法創始の同志として活躍した。
最初は 学生拳法として普及し始め、太平洋戦争により中断するが、故山田洪志は、昭和23年 名古屋市中区御園の他に千住正男他6名の同好の先生方と共に愛知における普及の礎 を、翌24年には大須赤門通り市場内にて宗家を迎えて演武会を開催し、名古屋支部を 発足するに至った、昭和28年名古屋市中川区日置町に中部本部洪志館道場開設。
練習 生70余名を数え昭和32年には名古屋市昭和区塩付町にも道場を開設する他、大字に おいても昭和29年には名城大学、名古屋大学において同好会発足。後に体育会所属の 部へと昇格の道を歩むに至り、昭和32年には中部学生拳法大会が開催され、現在、愛 知学院大学、中京大学、愛知大学、名古屋商科大学、三重大学、名古屋学院大学、愛知 工業大学、朝日大学、名古屋市立大学、松本歯科大学が参加する大会となっている。
 また、昭和46年に中川区百船町に洪志館道場が再建された頃には、愛知県、三重県の 各支部において少年部の練習生が急速に増え、昭和53年に第1回の東海少年大会を開 催できるようになった。